現代は便利なモノやサービスで満ちあふれています。
腹が減ったら近所にはスーパー・コンビニ。気軽にケータイでインターネット。
便利な生活に慣れきってしまった我々にはモノの有り難みはなかなか実感できないもの。
そんな現代にあって明治末期~昭和初期の生活を体験できる場所が長野県の山奥にあります。
生活原体験「いろりの里 大平宿」
これはそんな生活に少しだけ触れてきた1泊2日の旅の記録です。
いろりの里 大平宿
大平宿の歴史は時代の流れに翻弄されるように発展し、そして衰退しました。
大平宿(おおだいらじゅく)は、長野県飯田市に存在した宿場町である。
中山道と三州街道(伊那街道)を結ぶ大平街道のほぼ中間地点、標高1150mの大平高原と呼ばれる山中のわずかな平地に建物が点在している。始まりは江戸時代中期に木地師の大蔵五平治と穀商人の山田屋新七が、信濃飯田藩から許可を得て開墾したことに始まる。
その後、飯田藩により大平街道の通行を命じられた者や元善光寺参りの参拝者が滞在するようになり、文化年間(1810年代)には茶屋宿として栄えた。
明治になると、大平第三番小学正道学校や大平郵便局も設置され、長野県南部と周辺都市との交通や物流の要所となった。明治42年、木曽に中央本線が全線開通すると最盛期を迎え、戸数70を超える賑わいを見せた。しかし、大正12年に伊那電鉄が飯田まで開通すると、それまで大平宿を通って中央線を利用していた人々が減少し、さらに昭和30年代に清内路村(現阿智村)の清内路峠を越える国道256号が開通すると大平街道の交通や物流は減少の一途をたどった。
また、高度経済成長によるエネルギー需要の変化により村の中心産業であった林業(炭焼き)が成り立たなくなり、昭和35年の戸数は全盛期の半数以下の38戸にまで減少した。昭和45年、住民の総意として集団移住を決定し、同年11月末、大平宿は約250年の歴史に幕を下ろした。
Wikipediaより抜粋
そして集団移住後に高度経済成長期にありがちなリゾート開発会社による別荘地化計画の話が持ち上がったものの、反対運動と飯田市の水源地の保存運動と相まってNPO法人 大平宿をのこす会を中心に「使いながら残す」というコンセプトのもと保存活動が行われているのです。
大平宿へ!
最初は来年度の学校行事の下見ということもあり少人数で……ということだったのですが、 次第に「俺も、私も」と参加人数が膨れあがり、蓋を開けてみれば社長、副社長を含む総勢11名。
大平宿は"NPO法人 大平宿をのこす会"が管理を行い、南信州観光公社が窓口になっています。
まずは南信州観光公社の方と打ち合わせをするため飯田IC近くの「りんごの里」へ向かいます。
そこで大平宿のことや使用上の注意などのレクチャーを受けました。
ついで付近の西友で食材を買い出し。
11名分の食料となるとかなりの量になります。そして実はいざ食材を買う段階になっても夕飯のメニューすら決まっていないアバウトさ。
「鍋が良い」という方向でなんとなく話がまとまったものの何鍋か実は決まっていない。
しかもお酒が好きな人は"自慢のおつまみ"用食材を買い物カゴに放り込み、そうではない人は鍋の食材を適当に放り込み、あるいは酒が飲めない人はジュースを放り込む。
まさに「船頭多くして……」状態でまったく収集がつかない。
山積みの食材をレジで精算していると「これ食べきれるのか?」の不安が全員の脳裏をよぎる。超適当。
食材購入後は公社の人の案内でNPO法人 大平宿をのこす会へ行き、そこで使用料を支払い民家の鍵を受け取ります。
商店街の中の一店舗にNPO法人はありました。
表向きは登山関連の店なのですが、裏ではNPO法人をやっているというまるで秘密結社のようです。
これは知らないと気付かない。
こうしてようやく大平宿へ。
飯田市からの行程19km。所要時間約1時間。
山道を走り出すとあっという間に電波は圏外に。電波自体ございません。
道は……車一台しか通れない道を……。
右へ……
左へ……
こんな山道 誰も通らないだろうと思っていたが、不思議なことに結構対向車が来るのです。
そのたびに車を端に止めてやり過ごさなければなりませんでした。
細い山道を右へ左へと酔うぐらいに走ること1時間……。ついに到着しました。
そこは寒風吹きすさぶ寂しい山でした。
いよいよここでわずか1泊ですが、生活原体験が始まるのです。
(後編へ続く)
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